大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和59年(う)932号 判決 1985年6月12日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人石川泰三、同中井川曻一、同岡田暢雄、同秋葉信幸共同作成名義の控訴趣意書及び弁護人中井川曻一作成名義の控訴趣意補充書に記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官の職務を行う弁護士片桐章典、同大和田一雄共同作成名義の答弁書に記載のとおりであるから、これらを引用する。

論旨は、要するに、原判決は、「被告人は、茨城県水戸警察署警備課勤務の巡査部長として、極左暴力集団、過激派学生に対する情報収集、視察警戒等の任務に従事していたものであるが、昭和四六年九月一五日午後零時二〇分ころ、翌日に予定されていた成田新東京国際空港建設用地確保のための第二次行政代執行に反対する学生らの動向を視察警戒中、同県水戸市新原二丁目一一番一号所在の堀原グランド内において、A(当時一六年)外二名に対し職務質問をしようとしたところ、Aより『なんで君達が僕らをつけまわす権利があるのか』などと反抗的な態度を示されたことに立腹し、やにわに所携の長さ約七〇センチメートル位の棒状のものでAの左脇腹付近をめがけて殴りつけ、これを避けようとした同人の左手首の腕時計バックル部分付近を殴打し、よって、同人に全治約五日間を要した左手関節切創の傷害を負わせ、もって、その職務を行なうに当たり同人に暴行を加えて傷害を負わせたものである。」との本件審判に付された事実と同旨の罪となるべき事実を認定し、被告人を有罪としたが、原判決は、証拠の客観的、合理的検討を怠り、採証法則を誤った結果、事実を誤認したものである旨主張するものである。

そこで、所論にかんがみ、原審記録及び証拠物を精査し、当審における事実取調べの結果をも併せて、原判決の事実認定の当否について検討してみるに、原判決の証拠の価値判断、取捨選択及び推論の過程には左祖し難いものがあって、その事実認定は、是認するに由なく、原判決は、破棄を免れないものというべきである。以下、その理由を詳説する。

一1  関係証拠によれば、茨城県水戸警察署警備課所属の巡査部長であった被告人は、昭和四六年九月一五日朝から部下の吉原康雄巡査とともに、翌一六日に予定された新東京国際空港建設用地確保のための行政代執行に備えるべく、自己の乗用車(スバル)を使用し、過激派学生の動向を視察、警戒する任務に従事していたこと、茨城大学付近において、被告人が所用で下車した際に、当時高校二年生で積極的に学生運動などに参加していたA(以下「A」という。)が、B(大学生)及びC(高校三年生)とともに、吉原巡査の乗っていたスバルの車体を揺さぶったり、これを避けようとして発進した同車に対して小石を投げつけるなどの乱暴をしたこと、被告人は、立ち戻ってきた吉原巡査及びそのころ同じく乗用車(パブリカ)を運動して合流した部下の鈴木武巡査とともに、なおも右Aら三名の動向視察を継続してこれを追尾し、午後零時過ぎ、水戸市新原二丁目一一番一号所在の堀原運動公園(以下「堀原グランド」という。)に至ったこと、被告人は、かねて顔見知りで氏名も知っているAを除く、他の同行者に対し人定質問などをするとともに、前記のような乱暴について同人らに注意を与えようと考え、駐車に手間取っている鈴木巡査らを堀原グランド入口付近に残し、車から降りてAらを追いかけ、右入口から約九〇メートル構内に入った地点で、同人らに追いつき、「一寸待ってくれ」と声をかけ、接触するに至ったことなどが認められる。

2  右接触時の状況について、Aは、付審判請求事件の段階では、被告人から「お前は挑発しているのか」といわれたのに対して「何でつけてくるのか」というなど二、三の遣り取りをしたが、被告人は、Aの左頬を小突き、木刀で横殴りに殴ってきた、木刀は、同人の左手にはめていた腕時計に当たり、時計の本体は飛んで落ち、Cがこれを拾ったが、バックルについては、手に持っていたか、落としたか覚えていない、腕がしびれ、バックルの縁に沿ったように手首のところが切れて出血したが、流れ出る程ではなく、滲むよりは多い程度であった、なお口の中の傷は歯で切ったためにできたと思うが、唾に血が混じっていた旨供述しており(以下付審判請求事件における証人尋問調書、原審における公判期日外の証人尋問調書及び公判廷証言は、いずれも単に証言ということとする。)、原審においては、の小突かれたことにつき、被告人の手が何かの拍子で頬に当たって口の中が切れたともいい、につき、押収にかかる腕時計の本体及び鎖バンドを示された上での尋問に対し、両者が分離し、どちらか片方は飛んで、Cが拾ったと思う、現在の状況は、事件直後の状況と同じだと思うとか、外れている止め金(後記エンドピースの意)は、本件直後には鎖バンドの方についていた、また、腕時計の本体が地面に落ちたことは間違いない旨、につき、一本の筋になった傷ができていて、少し血が出ていたが、骨折、内出血や紫色に変色したことなどはない、赤くなったことは覚えていない旨述べるほかは、略右と同趣旨の証言をしている。次に、Aに同行していたBは、検察官に対する供述調書(以下「検察官調書」という。)において、被告人がAの顔面を殴ったのは同人の身体の陰になって見えなかったが、被告人が木刀を両手に持って肩の辺まで上げ、Aの腰の辺を狙って振り下ろした、腕時計は飛び散った、同人の手首の内側が一センチメートル余り切れ、血を流していた、と供述し、原審においては、被告人がAの右顔面を殴った(後に、殴るのを見たことは判然いえないと訂正する。)、腕時計はぱっと飛んだのか、その場に落ちたのかは判らない、腕時計が本体と鎖バンドとに分離したかどうか判らない、バックルの凹みについても記憶がない、手首の傷は滲む程度の出血であったなどと述べるほか、暴行の態様につき右供述と同趣旨の証言をしている。また、Cは、検察官調書において、被告人は、手でAの左頬を押し、両手で握った木刀を横振りに振り上げて同人の左腰の辺を叩いてきた、腕時計は本体の方が自分の斜め前に落ちたので拾った、Aの手首の内側に一センチメートル位の傷があり、出血していた、といい、原審においては、腕時計のバンドの片方が切れ、前に落ちたので自分が拾った、バックルが凹んでいたと述べるほか、右と同趣旨の証言をしている(以上ないしの供述を一括して引用する場合には、「Aらの供述」という。)。

これに対して、被告人は、検察官調書において、Aら三名に対して名前を聞こうとするや、Aは、「昨日から何で俺らを見ているんだ、この野郎やってしまえ」と怒鳴り、右手で被告人の左胸元を掴み、左手拳で被告人の右側頭部付近を狙って振り下ろしてきたため、被告人は、とっさに右腕を振り上げて同人の左手を払うようにして受け止めた、その時被告人の右前腕部に同人の左手首が当たった旨自己の所為が正当防衛であるという趣旨の供述をし、その後の付審判請求事件の段階及び原審においても、それぞれ略同旨の供述をしている。また、堀原グランドの入口付近で右接触状況を見ていたという鈴木、吉原両巡査の検察官調書及び証言は、いずれもAの手が見えたが、被告人がそれを防禦するような様子が見えたとか、あるいは、手をかざして受身の構えをした(吉原の証言によれば、さらに振り払うような格好をしたともいう。)のが見えた旨被告人の右供述に沿うものとなっている。

さらに、当時堀原グランド内の食堂付近に駐車していた車の中で漫画の本を読んでいたDは、検察官調書において、後方から喧嘩をしているような感じの声が聞えてきて、車内のバックミラーで見たような覚えがある、口論しているような声が聞えてきたのは三、二分位のものであった、車を降り、食堂にいたEとともに、学生風の三人連れのところに行って聞いたところ、そのうちの一人が「殴られた、けがした、時計が落ちてバンドが切れた」と言っていた、時計を手にしているのを見たが、時計を下げるようにしたり、腕にはめようとして手首の上に乗せたりしていたが、時計は、バンドの片方だけが本件から外れ、片方はついていた、バックルの凹損はなかったと思う旨及び右喧嘩の前に学生風の三人連れの男とその後ろから棒切れを持って駆けて行った一人の男とがいずれも車の横を通り過ぎるのをちらっと見たような気がする旨供述しているが、原審においては、右腕時計の状態及び学生風の三人連れの後ろから駆けて行った男が棒切れを持っていた点については、いずれも記憶がない旨証言している。また、Dとともに現場に赴いたEは、検察官調書において、三人連れのうちの一人の手首に、手に対して横に長さ二、三センチメートル、幅五ミリメートル位の傷があり、血が滲んでいるのが見えたが、三人のうちの一人は、「やられたんだ」といっており、その男は左手に時計をはめていたが、その時計は、バンドの止め具の折畳み式のところが外れ、傷がついている手首のところから指先の方に移動して、だぶだぶした状態になっていたが、時計のバンドが本体から外れて腕にはめられなくなっていたということはかなった旨供述し、原審においては、当初、腕時計のバックル部分が開き、鎖バンドと本体とは、止め金の片方が外れ、片方はついていた旨述べるものの、結局、検察官には記憶していたとおり正確に述べたと思うとして、前記のように、腕時計はだぶだぶした状態になっていたに過ぎない旨証言している。

3  次に、押収にかかる腕時計の本体及び鎖バンドの両者(以下この両者を併せて「本件腕時計」という。)の変形状況について、同鎖バンドを製造した株式会社バンビの社員大道登喜雄の証言に従い各部品名を呼称することとして検討する(佐藤千之助作成の鑑定書中の図面を複写し、これに右名称を付したものを判決の末尾に添付する。なお、以下の叙述においては、左手首に腕時計を通常に装着した際、当該腕時計の手掌に近い側を遠位側といい、肘に近い側を近位側ということとし、また、鎖バンドのうち、腕時計本体の六時側と接続する側を六時側といい、反対側を一二時側ということとする。)。

本件腕時計は、服部時計店製のセイコー・ロードマチックであり、鎖バンドは、これを伸ばした状態で見ると、別紙図面のとおり、バックル上箱の六時側は、上箱に続いて、順次、中板、下板、バンド部(本体駒とつなぎ駒から構成されている。)、エンドピース(時計本体と鎖バンドを連結する部品であり、バネ棒を中に入れて時計本体と鎖バンドのつなぎ駒を連結する仕組みになっている。)と続き、他方の一二時側は、上箱からバンド部、エンドビースと続いており、鎖バンドのバックル上箱への連結は、上箱の側縁にある六個の留穴のうち、一二時側から五番目の留穴にバネ棒を入れてセットされている。

本件腕時計の変形のうち、主要なものは次のとおりである。

イ  まず上箱は、一二時側に近い近位側縁から遠位側縁の略中央にかけて斜めの凹み(以下この凹みを「バックルの凹損」という。)があるが、その程度は近位側の方が大きい。また、近位側の縁金(前記六個の留穴のある部分)には、一二時側に近い個所に内側へ曲がり込むような変形を生じているが、遠位側の縁金には変形が認められない。

上箱の裏側を見ると、前記凹損に対応して膨れあがった形の変形があり、その頂部は、やや彎曲してはいるものの、略直線状の丸味を帯びた突起となっている。

一二時側の鎖バンドのうち、上箱側から数えて一番目及び二番目の本体駒並びに二番目のつなぎ駒には、バックルの凹損に対応する位置に、斜めの直線状の擦過痕があり、また、同三番目の本体駒二個の表面にも擦過痕が認められるが、この痕跡は、上箱の一二時側端の縁と対応する位置にある。

ロ  中板及び下板は、これを折り畳んで装着する場合に、手首の彎曲に応じるよう丸味を帯びて作られているものであるところ、これが扁平となっており、また、それぞれ近位側縁の一二時側寄り(但し、中板については折り畳んだ状態を前提とする。)に凹み(別紙図面の及びの部分)が認められる。この凹みは、上箱、中板及び下板を折り畳んだ場合に、上箱の一二時側の近位側縁に対応する位置にある。なお、腕時計を装着する場合には、上箱の六時側端の爪状のものを下板の六時側端に引かける仕組みとなっているところ、本件鎖バンドは、この爪状のものを下板に引かけることができなくなっている。

ハ  鎖バンドには、前記イの擦過痕のほか、六時側において、下板側から数えて六番目のつなぎ駒の裏側(皮膚に接する側)がやや開いた形となっており、その表側には凹みがあり、下板と鎖バンドを接続する金具は伸びを生じている。また、鎖バンドの一二時側の、上箱側から数えて三、四番目の本体駒の裏側には圧縮痕らしいものが認められる。

ニ  エンドピースのうち、六時側のものはやや変形し、これと連結するつなぎ駒にもやや平たくなったような(大道証言によれば、伸びたような)変形があり、また同側のバネ棒は二段階状に折れ曲がっている(ちなみに、前記佐藤鑑定書によれば、バネ棒の両端の両端の軸のなす角は、およそ四〇度であるという。)。反対側の一二時側は、バネ棒がなく、鎖バンドとエンドピースが分離している。

4  次に、医師安部裕之作成の診断書、診療録及び同人の証言によれば、本件当日水戸済生会総合病院において、Aを外来患者として診療した安部医師は、その症状について、約五日間の加療を要する左手関節切創、口腔切創である旨の診断書を作成し、診療録中にも同趣旨の記載がある。しかし、診療録中には、略図によって手首部分が図示され、また、英語、ドイツ語混じりの文章で、「昼一二時頃左手首に木刀があたる(日本語)、手掌側(英語、ドイツ語混じり)、切創(ドイツ語、赤石鑑定書によれば、医学上切創と訳するというが、一般的には切り傷ないしは創傷をも意味する。)、出血(ドイツ語)(一)、口腔内に切傷あり(口腔内はドイツ語、その他は日本語)」と記載されており、右略図中には、やや彎曲した線が手首の皺から僅かに離れて、右の切創の状況を図示するものとして描かれている。そして、同医師は、右診察の際Aの右手首の手掌側に切り傷があった、皮膚が破けていたのは確かであるが、傷の長さ、幅及び深さは判らない、診療録には、傷の実際の大きさにとらわれずに書くこととしている、同人の出血は止まっていたが、その出血も大したものではなかったと思われる状態であった、腫脹があったかどうかは記憶がない、同医師としては、切創や挫創等の厳密な定義にとらわれず、切ったような傷であれば切創と書くこととしており、当日診察した際切創と感じたので切創と記載したと思う、また、手当としては、患部を消毒してガーゼを当てた程度で、その後同人は通院して来ないと思う旨、なお、口腔内の傷については切創と書いたが、その部位、大きさ及び出血の有無は記憶がない、手拳で殴打してもできる傷と思うが、なぜ挫創ではなく、切創と書いたかは判らない旨証言している。

以上のような診療録の記載や安部証言によれば、Aの左手首の傷は切創と断じ得るものではなく、また、同人に対する右の治療内容や、診療録の記載からは同人がその後通院していないことが窺われること(これらの点は同人自身も認めているところである。)を併せ考えると、本件当日同人の左手首に生じた傷は、細い線状の、俗にいうかすり傷程度のものであったと認められる。Aの傷害を左手関節挫創ないし挫裂創とする赤石鑑定も、右認定と異なる趣旨ではないことはその鑑定書の記載から明らかである。

二1  以上縷述したところから明らかなとおり、本件においては、Aらの供述と、被告人ら警察官側の供述とは対立しており、両者の接触の際に、Aらのいう暴行の状況を目撃した第三者は存在しない。従って、客観的証拠である本件腕時計の変形状況及び安部医師作成の診療録に現われたAの受傷状況が、同人らのいう暴行の状況と符合し、これを裏付けているのかどうかを十分に吟味する必要がある。これを詳言すれば、右腕時計の変形状況については、人体の左手首に装着された腕時計のバックル部分が木刀様のもので一回打撃された場合、本件鎖バンドのバックルに見られるような凹損を生じるかどうか、換言すれば、このような凹損を生じさせる打撃物体は何か、また、その際の衝撃力はどの程度の大きさか、Aらの供述するような、被告人の打撃状況、Aの防禦姿勢及び両者の関係位置などを前提として考えた場合に、バックルに生じた凹損の角度は右供述と符合するか、さらには、本件腕時計の本体と鎖バンドとは、これを連結すべきバネ棒が一方では曲がり、他方ではなくなっていて分離しているが、に述べたような条件の下において、このような分離の可能性があるかどうか、その前提として、右のような分離を生じさせる力はどの程度の大きさか、すなわち、本件腕時計を、時計の本体を中心として左右に引張った場合に、どの程度の力(以下この力を「張力」という。)で本体と鎖バンドとが分離するかなどを検討する必要がある。次に、Aの受傷状況については、前記を前提として、木刀様のものでバックルの凹損を生じさせる程の衝撃力を加えた場合に、右バックル部分ないしはその周辺の手首にはどのような傷害が発生するか、すなわち、先に認定したような、細い線状のかすり傷程度の傷害が発生する可能性があるのか、また、これが発生する可能性があるとしても、右以外にもなんらかの傷害が当然発生すべき筈であるかどうかが検討されなければならない。そして所論は、右ないしに関する原判決の事実認定には誤りがある旨主張している。

2  原審においては、右のような争点について、多数の鑑定書ないしは意見書が取り調べられ、また、当該作成者がその内容に関連する証言をしている。すなわち、1のについては、髙生、鈴木及び佐藤の、同については、髙生、鈴木及び井上の、同については、鈴木、佐藤及び赤石の、同については、秦、牧角、内藤及び赤石の作成した各鑑定書(但し、内藤については意見書)が存在する。

3  そこで、まず前記1のの問題との張力の問題について検討する。原判決は、「争点についての当裁判所の判断」中の二の1の(二)の(1)において、右の衝撃力の大きさに関し、警視庁科学検査所技官髙生精也作成の鑑定書(追加鑑定書一通を含む。以下「髙生鑑定書」又は「髙生鑑定」という。)及び同人の証言(上記鑑定書と併せて「髙生鑑定」ということがある。その他の鑑定についても、この例による。)によれば、木刀を使用してバックルに凹損を生じさせた実験結果から、本件バックルの凹損を生じさせる衝撃力の大きさは一〇〇キログラムないし一五〇キログラム程度であった旨推認していること、警察庁科学警察研究所技官鈴木勇ほか三名作成の鑑定書(追加鑑定書一通を含む。以下「鈴木鑑定書」又は「鈴木鑑定」という。)によれば、木刀を使用して同様の実験をした結果から、髙生鑑定と同一の推論をしていること、茨城大学工学部教授佐藤千之助作成の鑑定書(追加分二通を含む。以下「佐藤鑑定書」又は「佐藤鑑定」という。)によれば、右衝撃力の大きさは、およそ五〇キログラムないし二八〇キログラム、平均一六五キログラム程度である旨推認していることを併記しているが、前二者の鑑定と佐藤鑑定のいずれを信用したのかについては、なんらの説明も加えていない。しかし、証拠の標目欄には前二者の鑑定を掲記し、佐藤鑑定を掲記していないところからすれば、前二者のいうところを採用したものと考えられる。ところで、佐藤鑑定は、鈴木鑑定において実験に供された腕時計用の鎖バンド三〇個(以下鈴木実験用バンドという。)の変形及びその実験データと本件鎖バンドの変形とを数量的に比較し、これらの変形と木刀による衝撃力の大きさとの関係を検討したものであるところ、鈴木実験用バンドは、セイコー・ロードマチック用の新品であるが、バックル上箱、中板及び下板の長さは、それぞれ本件鎖バンドのそれよりも長くなっている(その他には変更が認められない。)。佐藤鑑定は、打撃によるバックルの幅の変化から、本件バックルの凹損を生じる衝撃力の大きさを五〇キログラムないし二八〇キログラム、平均一六五キログラムと推定し、また、鈴木実験用バンドのうちの二個に、本件鎖バンドの中板及び下板の凹み(前記及びの凹み)と類似する変形が同じ部位にそれぞれ生じており、その衝撃力が二〇〇キログラムと一三〇キログラムであるところから、これについても平均一六五キログラムの大きさであるという。しかし、右について、佐藤鑑定書中の幅の変化に関するグラフによれば、本件鎖バンドと相関性があるとされているもののうちには、凹損の程度が本件バックルよりも大きいものあるいは小さいものなども含まれており、の二〇〇キログラムの衝撃力を受けたというバックルは、凹損の程度が本件のものより大きく、かつねじれが生じていることが認められ、また、同鑑定においては、鈴木実験用バンドと本件鎖バンドの規格が前記のとおり一部異なっていることなどから、中板及び下板の長さやその曲率(扁平化の度合い)などに関連した変形を数量的に比較して検討し得なかったことが窺われる。従って、佐藤鑑定人が総合的評価を下し、結論を得るのには、データが不足しているといわなければならず、衝撃力の大きさに関する同鑑定の結論は採用し難い。

これに対して髙生鑑定は、形態的なバックルの凹損の程度について、本件バックルと実験に供したバックルとを比較検討して、衝撃力の大きさを推定したものであり、右実験に当たっては本件バックルと同型のものを使用したというのであって、その実験及び鑑定に疑問を抱くべきものは存在しない。してみれば、鈴木鑑定の結論ががこれと矛盾するものではない以上、同鑑定の内容を吟味するまでもなく、髙生鑑定のとおり、本件バックルに加えられた衝撃力の大きさは、約一〇〇キログラムないし一五〇キログラムであったと考えるのが相当である。

また、本件バックルの凹損と、木刀による打撃を加えられた鈴木実験用バンドの凹損とを比較対照すると、本件バックルに対する打撃物体を、人体の前腕部ではなく、木刀様の直線部分を有する物体の方が適合するという髙生鑑定の結論部分もまた十分首肯することができる。

以上の次第であるから、本件バックルの凹損が木刀様の棒状のものによるとし、また、その衝撃力の大きさを約一〇〇キログラムないし一五〇キログラムと推定したと見るべき原判決の認定は、相当といわなければならない。

次に、前記1のの張力については佐藤鑑定が存在するところ、同鑑定によれば、時計本体と鎖バンドを連結した上での引張試験の結果から、エンドピースとバネ棒の変形は、右本体を中心として鎖バンドを左右の方向から約二〇キログラムの張力を与えることによって生じたものと考えられる、という。しかし、前に大道証言によれば、本件鎖バンドと同一の製品を使用して実施した実験によれば、約一三キログラムの張力によりバネ棒が曲がって時計本体と鎖バンドが外れたというのである(ちなみに、同証言によれば、つなぎ駒の引張試験の結果、その変形が生じるには三〇キログラムの荷重を必要とするという。)。右のような結果の差異が、使用した鎖バンドの規格の一部に前示のような差異があることに基づくのかどうか記録上明らかではないが、一応、以下の検討に当たっては、数値の少ない約一三キログラムの張力を前提として考察することとする。

4  次に、前記1のの問題については、Aの供述内容とB、C両名の各供述内容とは、被告人の打撃状況について異なっており、一致していない。すなわち、Aは、被告人が木刀で横殴りしたというが、他方、B、Cの両名は、被告人が木刀を振り下ろしたとか、木刀を斜め右上方に引き、上から振り下ろしたというのである。また、Aの手首の位置や内転の程度、両者の位置関係などは、一瞬の間の出来事に関することであって、その供述に十分な正確性を期待し難いのであるから、外形に現れた供述内容を基礎にして、これとバックルの凹損の角度との符合の有無を論ずるのは必ずしも相当とはいえず、ひいては原判決の当否いずれにせよ、これを判断する根拠とはし難いから、この点についての判断を措くこととする。

5  前記1のの腕時計の本体と鎖バンドの分離の可能性については、鈴木、佐藤の両鑑定のほか、東北大学医学部教授赤石英作成の鑑定書(以下「赤石鑑定書」又は「赤石鑑定」という。)がある。前二者は、右可能性を否定するのに対し、赤石鑑定は、本来、右1のに関する鑑定を目的とするものであるが、鑑定の理由の中で本問題に言及し、右分離の可能性を肯定する見解を示している。

また、右の衝撃力と、それによって生じる傷害の種類、程度の問題については、赤石鑑定のほか、昭和大学医学部講師秦資宣作成の鑑定書、九州大学医学部教授牧角三郎作成の鑑定書(以下「牧角鑑定書」又は「牧角鑑定」という。)及び東京慈恵会医科大学助教授内藤道興作成の意見書がある。赤石鑑定は、先にも述べたとおり、細い線状のかすり傷程度のものを挫創ないしは挫裂創とし、その他には発赤を生じる程度に過ぎないとするのに対し、その他の者は、右鑑定書又は意見書、及び当該証言において、いずれもそれに止まらず、皮下出血や腫脹を生じるとか(秦鑑定書)、強い発赤や皮下出血を生じる(牧角鑑定)、あるいは挫創、挫裂創、皮下出血、腱の断裂を生じる公算が大である(内藤意見書)というのである。

右概要の説明から明らかなとおり、前記1の及びのいずれについても、赤石鑑定と、内藤意見書を含むその他の鑑定とは、その見解を異にし、対立しているところ、原判決は、事実認定について、赤石鑑定に依拠しているから、以下同鑑定を中心として原判決の当否を検討することとする。

三  まず、本件腕時計の本体と鎖バンドの分離の可能性について検討する。

1  原判決は、赤石鑑定書中の次のような記載、すなわち、Aが本件腕時計を緩く装着していたことから、「左前腕が水平位でなく、垂直位に近い状態で装着された腕時計は、それより遠位側にはそれ以上下がらない位置であり、また手首と手の太さの差により時計バンドの近位縁の一部あるいは全部が手首の皮膚から少し離れていたと考えられる。このように装着されている時計バンドのバックル部分の上箱近位縁から打撃力が作用すると」、「その打撃力は折り畳まれている中板・下板に伝わり、中板・下板の近位縁側が強く圧迫され、逆に遠位側縁の六時側端、一二時側端により、バンドには張力が生ずる」「木刀のようなものを左上肢で受けようとする場合に、一〇〇~一五〇キログラムの衝撃力が左手首の部分に加われば、左手部は手掌側へ瞬間的に強く屈曲する。この屈曲と」、「左上肢で木刀ようのものを受けようとしたための筋肉の緊張状態が合わさって左手首の栂指球・小指球にかかる手首部の長さは一層増すであろう。(中略)そして、この周囲の長さの増加は、時計バンドにより大きい張力を与えるであろう」、「したがって、バンドに張力を生じたのはバックル部分に打撃力が加わったときであり、しかも、その打撃力は一〇〇~一五〇キログラムであることから相当の張力が生じたであろうし、この張力によってバネ棒の曲がりとつなぎ駒の変形が生じたと考えられる」とある部分を引用し、これとAらの証言並びにDの証言及び検察官に対する供述調書とを総合して、本件腕時計の鎖バンドのバネ棒が曲がり、つなぎ駒の変形が生じ、同腕時計の本体と鎖バンドが分離しても不合理ではない、という。これに対して所論は、右赤石鑑定は専門ではない分野についての素人の仮説に過ぎず、なんら証拠価値はないし、Aの供述するような状況では右分離の可能性はない旨主張する。

2  そこで、まず鈴木鑑定における衝撃荷重の測定実験を見てみると、次のとおりである。すなわち、人体模型の左手首(コイルスプリングの周囲を特殊ウレタンで覆ったもの)に鎖バンドを装着し、当該手首部分を荷重計の上に乗せ、まず、上向きになったバックル表面に木刀の刃部を当て、木刀の峰を木ハンマー又は掛矢で打撃し、次に二五歳の男子が木刀でバックル表面を打撃して、合計三〇回の実験が試みられている。そのうちの一七例は、鎖バンドだけの実験であり、他の一三例は、時計本体と鎖バンドを連結して実験したものである。後者の場合、時計本体を取り付けた鎖バンドを前記模型の左手首にきつく、あるいは緩く装着したうえ、木刀でバックル表面を打撃しているが、その際時計を保護するため、荷重計と手首の間に血状の鉄製物体を置き、これによって荷重が伝達されるようにして測定している。

後者の実験一三例のうち、一〇〇キログラムないし二五〇キログラムの衝撃荷重をバックル表面に与えた一二例においては、二五〇キログラム及び二二〇キログラムの衝撃荷重の場合に、バックルと鎖バンドを連結するバネ棒が外れているが、これらは、バックル部分の変形に起因するものであって、時計本体と鎖バンドの連結バネ棒が変形したり、あるいは外れたものはないというのである。残る一例は、バックル面に打撃を与えた時、時計本体と鎖バンドを連結するバネ棒にどの程度の力が加わるかの数値を測定するための追加実験例である。右実験に当たっては、時計本体の両側のバネ棒に直近する鎖バンドのつなぎ駒の表面に歪みゲージを貼付し、バックル部を打撃した時の腕自体の歪みを測定している。右実験例によれば、バックル部分への衝撃荷重は二八〇キログラムであって、バックルは大きく変形し、バックル部のバネ棒は、バックルの変形のために外れて落下している。ところで、歪みゲージを貼付したつなぎ駒のうち、六時側の駒には歪みの反応がなく、一二時側に位置する駒には、バックル部への打撃後約〇・二秒遅れて歪みの発生が記録されているが、その測定結果は二・三キログラム/mm2の極めて小さいものであって、時計本体と鎖バンドを連結するバネ棒には殆んど打撃の力は影響しない、というのである。

歪み測定の実験に供された鎖バンドは、本体駒の数が本件鎖バンドのそれよりも六時側で二個、一二時側で四個多く、つなぎ駒の数もそれに伴って多くなっており、また、上箱の一二時側から数えて最初の留穴にセットされているが、他方、衝撃荷重は、本件バックルのそれの約二倍であるから、右のような駒数の増加などが前記の結論を導くのに影響があるとは考え難い。その他の時計本体を鎖バンドに連結してなされた右一二例についても、鎖バンドが上箱の一二時側から数えて一番目又は二番目の留穴にセットされており、また、そのうちの六例には駒数の多いものが見受けられる(うち四例は本体駒の数で二個あて、一例は同じく二個と三個、残る一例は六時側だけが同じく四個多くなっている。ちなみに、これは、人体模型の左手首に緩く、あるいはきつく腕時計を装着しようとしたことによる差異と認められる。)が、これらに対する衝撃力の大きさや、駒数が本件鎖バンドと同じである他の六例についての結果とも彼此対照して考えると、これまた結論に影響があるとは考えられない(ちなみに、赤石、牧角両鑑定においても、時計本体と鎖バンドを連結しての打撃実験が行われているが、その目的を異にしているところから、赤石鑑定においては、バックル部分が類似しているとはいえ、バンド部分やエンドピースの性状を異にする例が多く、牧角鑑定においても、実験に供された鎖バンドが押収されていないし、また、中板及び下板には本件の及びの凹みのような変形を生じていないところから、やや衝撃力が小さいと思われる、というのであるから、直ちにはこれらの実験例を参考にすることができない。ただ、両鑑定のいずれにおいても、時計本体と鎖バンドの分離を生じる事例がなかったというのであるから、ここでは、鈴木鑑定と右両鑑定とが矛盾するものではないことを確認しておけば足りる。)。

以上詳述したような実験結果に基づく鈴木鑑定によれば、赤石鑑定の前記1のの張力は、時計本体と鎖バンドを分離させ得る一三キログラムの大きさに達するとは考え難い。

3  次に、赤石鑑定のいう前記1のについては、「筋肉の緊張状態」が生じた場合に、「左手首の栂指球・小指球にかかる手首部の周囲の長さ」が増すとは経験則上考え難いだけではなく、牧角鑑定書によれば、「腕時計をはめた(小豚の)後肢を後方から棒状鈍体で強く打った場合、後肢の膝相当部が瞬間的に前方へと強く屈曲するという現象がどの実験でも認められたが、これは人体においても、左手首にはめた腕時計のバックル部分を棒状鈍体で強く打った場合、同様に手首が手脊側へと屈曲することを示唆する」というのであって、具体的な打撃実験に基づく右推論を否定すべきいわれはなんら存在しないのであるから、赤石鑑定の右及びこれとともに手掌側への屈曲によって前記の張力の増加を論じる同は、いずれも立論の前提を欠くものといわれなければならない。

4  原判決は、また、「本件腕時計のバックル部分に前記の程度(赤石鑑定の前提とする一〇〇ないし一五〇キログラムの意)の衝撃力が加わったとすると、その衝撃により、本件腕時計の本体及び鎖バンドの六時側の接続部分の付近が、瞬間的に相当な程度の力で左腰部付近に押し当てられる結果となることも十分に考えることができるのであって、そうだとすると、鑑定人赤石英作成の前記記載部分(前記1に摘記した部分の意)を併せ考え、六時側のバネ棒が(本件腕時計の)バネ棒のように曲がった状態となることがあっても不合理なことではなく、一方、その衝撃により、一二時側のバネ棒が外れることもあり得ることである」という。

そこで、右の本件腕時計のバックル部分に加えられた衝撃力を「本来的衝撃力」といい、また、腕時計の本体及び鎖バンドの六時側の接続部分の付近が瞬間的に相当程度の力で左腰部付近に押し当てられた場合に腕時計に加わる力を「副次的衝撃力」ということとして、以下考察する。

原審で取り調べられた鑑定書ないしは意見書中には、右の副次的衝撃力ないしはその際に生じる張力を具体的に検討したものは存在しない(佐藤千之助の証言によれば、一回の打撃から生じる因果関係はすべて検討したというに止まっている。)。しかし、赤石鑑定においては、右の点について参考とすべき実験が行われている。すなわち、同鑑定書によれば、本件鎖バンドと同一の製品がないところから、これと類似の鎖バンドに別種の時計本体を連結し、これを死体の手首ないしは前腕部に装着して合計四回の打撃実験がなされている。その内容は、「解剖台へ仰臥位に置かれた死体の前腕を、解剖台と同程度の高さの木製の台上に置き(打撃実験時には木製台に毛布を一枚敷いた)、左右前腕に時計本体・時計バンドを装着し、バックル部分を木刀で打撃した。打撃の際の前腕は、水平位の状態である。バックル部分の打撃は、左前腕に時計を装着した場合は、本件時計バンドのバックルの凹損と同じように上箱近位側一二時端から遠位側六時寄りを結ぶような時計バンドの長軸に対して斜め方向の打撃とした。右前腕に時計を装着する場合は、鏡像対称となるように装着した。従って、バックルの凹損も鏡像対称となって」いるというのである。

右四回の実験に当たっては、先にも述べたとおり、本来赤石鑑定の目的とするところが次の四に関する問題であることから、「類似の時計バンド」が使用されたというものの、そのうちの三回については、エンドピースやつなぎ駒が本件鎖バンドのそれとは性状を異にしていて、本問題を考察する上での参考とすることができない。しかし、右前腕部での実験に使用された鎖バンドは、張力を考える上で特に重要なエンドピース、心棒及びつなぎ駒の三者について、いずれも本件鎖バンドのそれと比較的類似しているということができる。そこで右の実験について見てみると、死体の右前腕部に緩みなく装着した腕時計のバックル部分を木刀で打撃したところ、一二時側のバネ棒の一端が微かに曲がる変形が生じたが、時計本体と鎖バンドを連結するバネ棒が外れた形跡はない、というのである。なお、衝撃力の程度を推測させるバックル部分の変形については、「バンド上箱の凹損は、本件時計バンドのそれと同程度であるが、中板・下板の変形ははるかに強」い旨記述されており、右実験に供された鎖バンドを検すると、右記述は正確と認められる。

以上のような赤石鑑定の実験経過からすれば、実験に当たっては、木製の台に敷かれた毛布の上には、順次、腕時計の本体ないしはその周辺部分、右前腕、腕時計のバックル部分が載っていることとなる。してみれば、腕時計のバックル部分に、前記のような本件腕時計に対すると同程度の衝撃力を加えると、腕時計の本体ないしはその周辺が、瞬間的に相当な程度の力で毛布を介して木製台に押し当てられる結果となるから、いわゆる副次的衝撃力の問題を考えることができる。この場合の毛布を敷いた木製台と、原判決の想定する、衣類を着用した左腰部の場合とを比較すると、本来的衝撃力が両者同程度である以上、前者の場合の副次的衝撃力は、後者の場合のそれを下回るとは考え難い。それにもかかわらず、右実験においては、なんら時計本体と鎖バンドが分離した形跡はないのであるから、所論の指摘するとおり原判決の推理判断の過程には疑問があるといわなければならない。

四  次に、所論は、木刀様のものの一回の打撃によってバックルの凹損を生じさせた衝撃力の大きさとAの傷害が符合するかどうかについて、原判決の依拠する赤石鑑定は、死体に対する実験結果を前提とするものであって、措信し難いなどと種々論難する。以下この点について検討する。

1  ところで原判決は、赤石鑑定書及び同人の証言によれば、同人の実験によって生じた創傷は、線状の表皮剥脱が生じることが特徴的であり、また、打撃部位の皮下軟部組織、筋肉、腱等には、少なくとも目に見えるような挫滅はなく、これらの状況からすると、Aには、生活反応として、表皮剥脱からの僅かな出血(あるいは滲む程度)とバックル裏面に一致する発赤が生じる旨推認し、結論として、Aの左手首には、線状の表皮剥脱、または表皮から精々真皮に及ぶ挫創あるいは挫裂創が生じたと考えられる、としていること、牧角鑑定書及び同人の証言によれば、同人の小豚に対する実験結果においては、表皮剥脱や発赤現象などが認められるが、人体の皮膚組織が豚のそれよりも繊細な性状がみられることを考慮しても、小豚の右傷害は格別に重篤な症状ではないこと、Aが殴打されるに際し、打撃物体を意識的に受け止めようとしたこと、その打撃が腕時計のバックル部分で受け止められる形となっていることからすれば、当該打撃が腕時計のバックル部分だけにしか当たらなかったとしても、それは具体的事態においては十分にあり得ること、打撃物体である棒状のものが、腕時計のバックル部分だけではなく、その延長方向にある前腕や左手の栂指球部分にも接触する状況となることがあったとしても、本件腕時計のバックル部分の状況からすると、打撃力が当該バックル部分によってかなりの程度に減殺されることの四点を主な論拠として、本件バックルの凹損を生じさせる程度の打撃とAの傷害の間に矛盾はなく、符合するとしている。

2  そこで検討するのに、原判決は、判文自体から明らかなとおり、右認定に当たっても、赤石鑑定に大きく依拠している。しかし、同鑑定には、所論のとおり基本的な点において重要な誤りがあるといわなければならない。すなわち、同鑑定においては、死体を対象として打撃実験を行っているところ、同人として、Aの供述するような外表の損傷が起こり得たのかどうかが問題の焦点であって、記録上、皮下出血や腫脹までが生じた事実が窺われないところから、死体であっても問題を解明するのに十分参考となり得ると考えたというのである。しかし、同人に委嘱された鑑定事項の主要な点は、人体の左手首に装着した本件腕時計のバックル部分を、木刀様のもので同バックル部分に見られるような凹損を生じる程度の打撃力を一回加えた場合に、手首に傷害が生じるかどうか、傷害が生じるとした場合どのような傷害が生じるか、安部医師作成の前記診療録及び診断書に記載されたような傷害の発生は考えられるかどうかであるのに、赤石鑑定人は、を問題の焦点と考えたことから、以下に述べるような生体と死体の差異を重視せず、ひいてはの後段部分を等閑視する結果に陥ったものというべきである。すなわち、同人の証言によれば、皮下出血を生じるためには、当該部分の血管が破れること、破れた血管の中に血液が存在していること、その血液を当該破損個所から外部へ押し出す血圧があることの三条件を必要とするところ、死体の場合には、の条件を欠き、また、時にの条件を欠くこともある、その結果、生体であれば皮下出血が顕著に現れるような場合であっても、死体では新たに送り出される血液がないために、血管内に滞留していた血液が微少な量だけ外部へ出るに止まることがあり、このような現象は顕微鏡標本を作成して検査しなければ判明しないし(ちなみに、同人の右実験においては、標本が作成されているが、検査はされていない。)、また、発赤は血管拡張から起こる生活反応であって、死体ではこのような現象は起こらないというのである。同人は、右のような死体の実験の結果、鑑定事項のような打撃によって、「生活反応として、表皮剥脱からのわずかな出血(あるいは滲む程度)とバックル裏面に一致する発赤が生ずると推測される」としている(ちなみに、同人は、秦鑑定を批判する個所では、「バックル裏面の形状に相当する極く軽度の皮下出血あるいは発赤程度」のものの発生を推定している)に過ぎないのである。もっとも、赤石鑑定においては、髙生鑑定における実験の経過を重視し、自己の結論を導くための有力な論拠の一つとしており、原判決も同様な立場を採っているから以下この点について検討する。

3  原判決が髙生鑑定の実験内容を引用して説示する部分を詳記すると、同人は、腕の代替として布を幾重にも巻いて棒状にしたもの(直径約一〇センチメートル程度)を作り、これを打撃者(年齢二六歳の男子)において右前腕部で強度に打撃した場合の衝撃力を測定しているところ、「その一〇回にわたる実験の結果は、最小値一二一・七キログラム、最大値一七一・一キログラムを示しており、このことからすると、この実験に際し、打撃者に、取り立てて述べるほどの創傷等が生じることはなかったものと推認される」とし、これを論拠の一つとして、本件において、Aには「肉眼ではっきりと認められるような皮下出血を生じなかったと考えても」、不合理ではない旨説示している。

ところで、原判決の行文にはやや難解な点がないではないが、その言わんとするところは、赤石鑑定書同様、髙生鑑定においては、右のような数値の衝撃力を生じた実験を、同一人が右前腕部を使用し一〇回にわたって行ったことから、同実験によっては当該実験者が特段の創傷を負わなかった旨推認し得るとする趣旨と解される。

しかし、赤石鑑定人の右のような理解の仕方及び原判決の右認定は、明らかに誤りといわなければならない。すなわち、衝撃圧力は、衝撃力に正比例し、接触面積に反比例する関係にあることは自然の理である。換言すれば、衝撃力が同一である場合に、接触面積が二倍、三倍となれば、衝撃圧力は二分の一、三分の一となる関係にあるのである。現に、髙生鑑定書によれば、たしかに、右前腕部による打撃実験において、衝撃力に関し、原判示のような数値の実験結果が得られているが、他方、この結果及び木刀による同様な打撃実験の結果を前提として、衝撃力のみを比較すると、右前腕部を使用して強度に打撃した場合の一二〇ないし一五〇キログラムは、右手に木刀を持って中程度の力で打撃した場合と同程度であるが、右前腕部の場合には、打撃物体が筋肉であるため、打撃した際(打撃された物体の)接触面積が大きく、バックルの面積(約三七五平方ミリメートル)を越える程であって、その衝撃圧力は、一平方ミリメートル当たり〇・三ないし〇・四キログラムと考えられる、これに対し、本件のバックルに印象された凹損は、長さ二〇ミリメートル、幅一ミリメートル程度であるから、その衝撃圧力は一平方ミリメートル当たり五ないし八キログラムと考えられる旨説明しているのである。

右説明のうち、後者の衝撃圧力が一平方ミリメートル当たり五ないし八キログラムとする点は、直ちには採用し難い。すなわち、後記5及び6において詳述するところから明らかなように、本件バックルの凹損を生じた際に、これが人体の左手首に装着されていたことを前提とすれば、バックル部周辺の手首部分に対しても、打撃物体の一部が当たり、それによる衝撃力の分担の可能性や、バックルの中板及び下板による衝撃力の分担の可能性を考えなければならず、そうだとすると、打撃された本件バックルの凹損部分の受ける衝撃圧力は、髙生鑑定の言うところよりも幾分減少して考えなければならないからである(この間の事情は、前者の場合も略同様である。)。しかし、この点を考慮にいれても、両者の衝撃圧力に格段の差があることは叙上の説明から明らかであり、また、髙生の当審証言によれば、右前腕部で打撃した場合において、打撃物体の受ける衝撃力及び衝撃圧力は、いずれも打撃された物体のそれと同程度と認められる。

してみると、人体の左手首に装着した腕時計のバックル部分を木刀で打撃した場合に、肉眼で判然認め得るような皮下出血を生じないと推認するために、髙生鑑定における実験者の右前腕部に「取り立てて述べる程の創傷等が生じ」なかったことを論拠とするのは、明らかに誤りといわなければならない。

4  次に、原判決が牧角鑑定について指摘する1のの点について検討すると、原判決は、牧角鑑定の小豚の実験では、「表皮剥脱や発赤現象などが認められることはあるものの、格別に重篤な症状を生じたわけでもない」旨説示している。

しかし、問題は、小豚の実験からAに重篤な傷害を生じたかどうかを推定しようとする訳ではないのである。同人らの供述を前提として、本件バックルの凹損を生じる程度の衝撃力を左手首に受けたとした場合、それによって生じる傷害が、細い線状のかすり傷のような創傷に止まるのか、あるいは症状の軽重は別として、当日同人を診療した安部医師において看過する筈のない傷害が、右創傷以外にも当然生じた筈だと考えるべきなのかどうかである。

牧角鑑定人は、実験に当たって、死体を対象としても生体に生じる反応を見ることができないとして、体毛を刈り込んだ小豚を使用しているが、これは、他の動物と比較すると、体毛が少なく、体表とくに表皮損傷の性状を観察するのに適しているから、というのである。

そして、牧角鑑定によれば、人体の皮膚組織は、豚のそれよりも繊細な性状がみられ、同様な打撃に対しても、豚の皮膚より発赤しやすい傾向がある、小豚を使用しての打撃実験においては、ネンブタール麻酔を使用しているが、その影響によって、ある程度血圧が低下し、皮下出血や発赤などが抑制されるというのである。たしかに、原判決は、判文から明らかなとおり、の点についての配慮を見せてはいるが、十分に留意したとは考え難い。すなわち、牧角証言によれば、同人は、小豚に対する木刀や手での打撃実験の結果と、人体の腕や豚を指で叩いた実験の結果との比較検討に基づく知見として、再三にわたり、豚よりも人体の方がはるかに発赤や皮下出血などが生じやすいし、さらには、木刀で腕時計のバックル部分が凹損する程度の打撃力を人体の手首に加えた場合には、発赤に止まらず皮下出血を生じると考えるのが妥当であるとか、当然である旨強調しており、かつ、の指摘もなされているのである。そして、これが右のような諸種の実験結果に基づく推論である以上、疑うべきいわれはない。

してみれば、原判決の右説示は、結局、赤石鑑定を過信し、牧角鑑定の実験に基づく推論を過小評価した結果と考える外はなく、首肯し難い。

原判決は、また、「打撃を受けた部位によって発赤の発現及び消失の仕方が異なることは十分に考えられる」し、Aの左手首に「前記のような傷害(原判決にいう左手関節挫創ないし挫裂創の意)が生じているのであるから、関係者が発赤の有無について注意を払わず、記憶がないとしても」不自然ではないとしている。そこで、まずについて検討すると、たしかに牧角証言においても、発赤の発現には人体の部位による異同があり得ることや、その消失にも個人差があることは認めているところであるが、この点を考慮しても、人体に強い皮下出血が起こった場合には、一両日ないしはそれ以上にわたって皮膚の変色が残るというのであるから、木刀の打撃によって腕時計のバックルに凹損が生じる程の衝撃力が手首に加えられた場合、同所に生ずべき皮下出血による変色が数時間後にこれを診察した医師において気付かない程に消失するとは考え難い(Aの供述によれば、同人が安部医師の診察を受けたのは、暴行を受けてから約一時間後とも、あるいは約三時間後ともいう。)。

次に、にいう関係者のうち重要なのは安部医師である。すなわち、診療に当たった同医師が、患者に皮下出血の症状があるとすれば、これを看過し、診療録等に記載しなかったとは、これまた考え難いところである。

5  さらに、原判決の指摘する前記1のについて検討するに、原判決は、木刀による打撃がバックル部分だけにしか当たらないという事態は十分にあり得るというが、先に摘記したところから明らかなように、その論拠は必ずしも明確なものとは言い難い。そして、この点に関する赤石証言は、偶然による可能性を強調するに止まっている。しかし、右説示は、前記のような実験の結果から推論する牧角証言を無視したものというべきである。すなわち、同人は、その鑑定書において、「木刀が左手首のバックル部分に当たって、しかもバックル部分以外には接触しない場合を仮定すると、それは左手首を含めた前腕から左手が棒のように硬直している場合しか考えられない云々」と記載したことについて、小豚が自由に行動できる状態の下での実験に基づくものではなく、麻酔をかけられたため緊張を生じ得ない条件下にある小豚に対する打撃実験からの類推に止まるため、実験に基づく直接の結論ではない旨証言するものの、同人は、その鑑定書において、右打撃実験の状況を高速度カメラなどで撮影したものを観察した結果として、当該打撃の際には、バックル部分だけに止まらず、これに近接する皮膚の部分までその打撃が加わる旨を述べており、さらに証言においても、木刀はバックル部分とそれに近接する皮膚の部分に同時に当たっている旨を述べている。そして、鑑定書中の前記仮定論は不要なことを書いたと思う旨、また、生体であれば皮下組織に弾力があるから、木刀でバックルの凹損が生じる程の打撃を加えれば、当然バックルに近接する皮膚の部分に木刀が当たる旨それぞれ証言し、同人の実験からの推論として、人体の筋肉が緊張していても、バックル部分だけに木刀が当たる事態は想定し得ない趣旨のことを述べているのであって、右推論は同人の実験経過に照らし納得し得るところであるから、具体的根拠に基づく牧角鑑定を措信しなかった原判決の右認定は肯認し難い。

6  最後に原判決の挙示する前記1のについて検討すると、原判決は、右に摘記した以外にも、「鑑定人赤石英及び同牧角三郎の各実験の結果を総合すると、腕時計のバックル部分が衝撃を緩衝し、人体に対する影響を緩和することは十分に考え得る」とか、「髙生精也が実施した右前腕部による打撃実験及び鑑定人赤石英による鑑定の結果並びに鑑定人牧角三郎の鑑定の結果を総合し、腕時計のバックル部分が人体に対する影響をかなりの程度に緩和する機能を有することを推認することができる」という。

たしかに、赤石鑑定書には、本件腕時計のバックル下板彎曲面の面積は上箱の面積よりもはるかに広いため衝撃応力は小さくなる旨の記載があり、また、髙生鑑定書中にも、本件腕時計のバックルの裏側には、厚さ二ミリメートルのバンド及び厚さ〇・七ミリメートルの折返し金具板が二枚位置しているため、バックル表側を打撃した際、衝撃力は、ある程度緩衝されることが予想される(本件腕時計のバックル部分の状況に基づいた原判決の前記1のの推認は、両鑑定書の指摘する右状況を指すものと解される。)が、これがどの程度の傷害に対応するかについては不明である旨の記載がある。しかし、これら両鑑定は、右に見たように、理論的可能性として衝撃力がある程度緩衝され、減殺されることを認めているものの、その程度如何についての明確な解折や実験をしている訳ではない。

これに対して牧角証言は、バックルの存在による衝撃力の減殺を認めながら、木刀で打撃して、これが(小豚の)バックル部分とその他の皮膚の部分とに同時に当たった場合、それぞれ発赤の発現の仕方が異なるのではないかとの問に対し、略同じ発現の仕方である旨証言し、また、バックルの下面に接する皮膚の部分は、木刀が直接当たった皮膚の部分と比較すると、バックルの底面に広がって分散され、多少減殺された形の発赤となるが、その色の現れ方は大体似たような強さの現れである旨同人の前記実験に基づく知見を述べているのである。

また、原判決は、先に引用したとおり、髙生鑑定における、右前腕部による打撃実験をも援用しており、この場合は、前記3の場合とは異なり、打撃を受ける方の衝撃力の大きさを問題とした趣旨と解される。しかし、これが衝撃圧力についての誤解に基づくとは、右3の説示から明らかというべきである。

以上の次第であるから、この点においても、原判決には証拠の取捨、推理判断の過程に過誤があるといわなければならない。

五  次に、所論は、原判決がAらの供述を裏付けるものとして援用するDの昭和四七年一月五日付検察官調書について、同人の棒切れを持っていた云々の供述部分はその後の目撃状況に関する供述部分と対比すると措信し難いなどといい、原判決を論難する。そこでこの点について検討するのに、原判決は、同調書を次のとおり要約している。すなわち、同人は、「本件当日の、午前一一時を過ぎていて、午後零時を過ぎていたかどうかは分からないが、堀原グランド内の食堂の前に、車の前方をグランド入口の方に向けて止め、」「運転席で漫画の本を読んでいたところ、三人連れの学生風の男が、グランド入口のある茨交車庫の方から歩いてきて、車の横を通り過ぎて行ったのをちらっと見かけたような気がし、その後間もなく、ひとりの男が、やはり茨交車庫の方から駆け足できて、車の横を通って行ったのに気がついた。その男は姿かっこうから判断して三〇歳前後であるように思われた、特徴は髪の毛が短かかった、背丈は一メートル六九センチメートルの私よりは少し低いくらいの感じで体格は普通よりちよっと太っている感じの男だった、服装は上の方は半袖えりつきのシャツであったような気がする、その男は、手に、七、八〇センチメートルくらいの長さではないかと思うが、棒切れのようなものを持っていた。そのうち、後方から喧嘩をしているような感じが聞えてきて、車内のバックミラーで見たような覚えがあるが、駆け足で行った男と三人連れの学生風の男とが口論しているのを見たような覚えがある。口論しているような声が聞こえてきたのは二、三分くらいのものであったように思うが、そのうち、駆け足で行った男が、茨交車庫の方に向かって早足で帰って行った、」「私は、車から下り、一旦食堂に入り、食堂を手伝っているEに、『喧嘩みたいだ。』と話し、同人と二人で、学生風の三人連れの方へ行った。そのそばへ行って、『何したの。』と声をかけると、三人のうちの一人が、『殴られた。けがした。時計が落ちてバンドが切れた。』と言っていた、そのうちの一人が時計を手にしているのを見たが、時計を下げるようにしたり、腕にはめようとして手首の上に乗せたりしていたが、時計は、バンドの片方だけが本体から外れ、片方は付いていた、」というのである。

ところで、右供述にいうグランド入口とは、検察官山田一夫作成の実況見分調書によれば、茨城交通株式会社茨大前営業所(右供述にいう茨交車庫であり、以下「茨交車庫」という。)の前に、道路を挾んで設けられた堀原グランドの北側出入口(以下「入口」という。)であり、構内に入ると、左側(入口の南方)にグランド食堂(以下食堂という。)及び茨城県教育財団運動公園堀原事務所を収容する建物があり、入口から食堂の前に設けられた花壇までの距離は三九・五メートルである。また、同建物の後方南側にフェンスで囲まれたグランドがあり、西側は陸上競技場となっている。入口からは、食堂及びグランドと陸上競技場との間を通って西南方へ行くと、水戸拘置支所へ至ることができる。

右実況見分において被告人の指示する接触現場は、入口の西南約八九・七メートル、前記花壇からは西南へ約五〇・五メートルの地点であり、また、Aの指示する現場は、右花壇の西南約四三メートルの地点である。そして、Dは、その証言において、前記口論があったのは、食堂の前に駐めておいた乗用車の運転席から後方(西南方)約五〇メートル離れた地点である旨述べており、以上三者の述べる現場の位置に大きな差異はない。

原判決は、Dの供述の前記要約のうち、三人連れの学生風の男の後ろから駆け足できた男が棒切れのようなものを持っていたのを目撃したとの部分を摘示したうえ、同調書が作成されたのは本件後三か月余しか経過していない時期であることから、供述者の記憶が比較的鮮明であったこと、その内容が具体的で、かなり詳細であること及び同人の証言によれば、裁判において証拠として使用されることを意識していない状況の下で右供述がなされたことを挙示し、同調書は、Aらの供述と符合し、信用性が高い旨判示している。

しかし、原判決の右認定は、所論のとおり合理的なものとはいえず、肯認し難い。すなわち、Dの供述によれば、右に摘示されているとおり、後ろから駆け足できた男が棒切れのようなものを持っていた、というのであるが、これに関連する同供述を時間的順序に従って仔細に見てみると、①Dの車の横を通り過ぎる時に、「その男はどっちの手にどんな具合にして持っていたか覚えていないのですが、手に棒切のようなものを持っていました」、②その男が三人連れの学生風の男と口論しているのを見た時には、その男が「棒をその時も持っていたかどうかは判りませんでした」、③その男は、茨交車庫の方に向かって早足で帰って行ったが、「その時も(中略)棒状のようなものを持っていたかも気がつきませんでした」、④「駆け足して来た男が戻って行く時、後ろの方で学生風の男が何か怒鳴り、戻って行った男がグランドの入口の近くまで行ったところで振り返り手まねきのようなことをして、ちょっと来いというような感じがしたことをしておりました、離れていたので顔は判りません」、⑤その男は、茨交車庫の前に停車していたスバルの「助手席の方から乗ったように思いました」、というのである。

さらに、棒切れを目撃したという①に至るまでの状況を見てみると、Dは、食堂の前の花壇の付近に、車を茨交車庫の方に向けて停め、運転席で漫画の本を読んでいたところ、「本を読んでいて別に気にもとめてはいなかったのですが、最初に三人連れの家生風の男が茨交車庫の方から歩いてきて、車の横を通り反対側の方に歩いて行ったのをちらっと見かけたことがあったような気がします」といい、次いで、「それが時間にしてはそんなにたたなかった頃だと思いますが、やはり茨交車庫の方から一人の男の人が駆け足で来て、私の車の横を通って行ったのに気がつきました、気がついたといっても、ほとんど私の車の横に来ていて、通り越して行くところを見かけた程度で、見たのは後姿だけで顔は見ていません」、と述べている。同人の証言によれば、右、のいずれの際も、漫画の本を読んでいて、自分の目の位置から四、五メートル離れた横を通り過ぎるのがちらっと見えた、というに過ぎない。してみれば、同人は、、のいずれについても、注意して観察しなかったばかりか、通常の状態で通行人を見かけた訳でもないのであって、、の供述は、単に一瞥した程度か、あるいは、漫画の本を読んでいる同人の視野の端を通過した程度の認識を表明するに過ぎないものというべきである。このことは、その後の状況に関する同人の供述部分からも看取することができる。すなわち、同人は、「駆け足して通り抜けて男がいったあとも、私は別に気にもしないで本を読んでいた、(そのうち後ろの方から二、三人の男が大声で言いあって喧嘩をしているような感じがしたが、)私は後ろを振り返っては見ず、ちらっと車内のバックミラーで見たような覚えがあり、駆け足して行った男が私の方には背を向けて先に行った三人連れの学生風の男と向い合って口論しているのを見たような覚えが残っています」というのであって、そのころ、同人が漫画の本に開心が奪われていた状況を窺うことができる。以上によれば、の状況、その一部である①の状況に関する同人の観察には、正確さを欠く疑いがあるといわなければならない。

原判決は、また、②及び③に関し、Dが棒切れに気づかなかったとしても、「記憶に基づく供述として不自然ではない」旨説示している。たしかに、②については、同人の関心が漫画の本に向けられていたことのほか、本件接触現場との距離が約五〇メートルあり、同人はバックミラーを介して状況を瞥見したに過ぎないことからすれば、同人において、後ろから駆けて行った男が右現場で棒切れを持っていることに気付かなかったとしても、これが不自然であるとはいえない。しかし、③について、同人は、これを④及び⑤に先立つ一連の経過の一環として供述しているのである。すなわち、運転席に坐り、漫画の本を読んでいた同人が、視線を窓外に移し、入口付近までの約四〇メートルの間に生起した経過を一連のものとして供述しており、この経過の中で、早足で戻って行った男が棒切れを持っていることに気付いていないことは、棒切れが途中で捨てられたとの証跡もないのであるから、①の状況に関する供述についての前記のような疑いを強めるものというべきである。

以上の次第であるから、Dの記憶が比較的鮮明な時期になされた供述であるとして、同人の前記調書を信用する根拠とした原判決の認定は肯認し難く、同人の供述には観察の正確さを欠く疑いが強い、といわなければならない。また、原判決は、同人の供述内容が具体的で、かなり詳細であるともいうが、棒切れを持っていたかどうかについて、この評価が妥当しないことは叙上の説示から明らかである。さらには、原判決は、右供述が裁判において証拠として使用されることを意識していない状況の下でなされたものであるともいい、これを右根拠の一つとしている。たしかに、同人の証言には、これに沿う部分があり、そのような供述には真実性の担保があるといい得る場合もあるが、他方、無責任な発言の可能性があることにも留意する必要があるというべきである。

もっとも、原判決は、三人連れの男の後ろから駆けてきた男が手に何か持っていたかどうか記憶がないとするDの証言について、そのなされた時期が事件後四年四月余も経過した時点であることを指摘し、同証言には記憶の不鮮明なところや曖昧さがあり、また、現職の警察官である被告人の面前では証言しにくい状況があるから、同証言を採用することはできない、ともいう。しかし、同証言によれば、本件当時日本大学四年生であったDは、本件の翌日学業のため東京へ帰り、本件についての新聞報道を見た(綿引甲子の証言によれば、本件当日の夜に、新聞記者から茨城県警察本部に対して本件に関する取材がなされた、という。)が、その時には自分が目撃した事件のこととは感じなかった、その日か、次の日に、母親からの電話で、殴った人が警察官であることが判った、(母親から、お前は)見たんだろうと言われ、何かそんなことがあったような気がするといったが、木刀で殴ったということは本当にあったかなという気がした、その後本件から四、五日経ったころ帰郷した際に、新聞記者から、「木刀で殴った警察(官)……」ということで取材された旨証言し、さらには、三か月余経った時点で検察官に対して供述したことについて、「見たのはそんな長い時間じゃないですから、自分では、はっきり断言できないんです」と述べ、また、後ろから駆けてきた男が何か手に持っていたかどうか尋ねられた際に、記憶がないと答えたことについて、検察官調書と右証言とのどちらが正しいと思うかと問われ、「あのときは、いろいろ新聞の報道やなんか聞いたりなんかしたり、何と言いますか、四、五日位経って新聞記者みたいな人が来たんですよ、木刀で殴ったことの事件について、なんだのかんだのと聞かれまして、そのことがなんか記憶にあって言ったような気がします」と述べている。当時一学生であったに過ぎない同証人としては、異常な体験ともいうべき新聞記者の取材に応じたことや、それに先立つ母親との電話による応対に触れ、自己の目撃した男が相手を木刀で殴ったことを前提とする問答が交わされたこと、その結果自己の記憶に混乱が生じた可能性があることを証言しているのである。そうしてみると、同人の検察官調書中の供述には、右のような問答によって記憶に混乱が生じた疑いを払拭することはできず、その供述に前記のような正確さを欠く疑いがあることも併せ考えると、同人の記憶がある程度不鮮明となったにせよ、右証言を被告人に対する遠慮として、一概に排斥するのは相当とはいえない。

また、Dの検察官調書中、原判決の要約するの部分についても、右同様の疑いがあるといわなければならない。すなわち、押収にかかる「権力の核斗委の同志への血の暴虐糾弾!」等と書かれたビラ(茨城救援センター名義)及び茨城県警察本部警務部監察課警部北川勲作成の調査報告書によれば、本件より三日後の昭和四六年九月一八日水戸市内の繁華街数か所において、茨城救援センターの名義で、「核燃斗争委・三里塚斗争委の同志」が、私服のX刑事から顔面を殴られ、さらに左腰めがけた木刀の一撃により、手首に全治五日間を要する傷害を負うとともに、「時計はバラバラになって飛び散った、金属バンドのバックル部分は、3mmの深さで斜めにへこんだ」旨の本件を糾弾するビラが撒かれたというのであって、新聞記者のDに対する前記取材の際には、これについての問答が交わされたこともまた窺うことができる。そうだとすれば、先に三において説示したとおり、木刀の一回の打撃によって本件腕時計の本体と鎖バンドとが分離破損する可能性がないことや、Eは、検察官調書において、本件直後の腕時計の状態について、これが分離しておらず、指先の方に移動してだぶだぶした状態となっていたに過ぎないと述べていることを併せ考えると、Dは、Aが「時計を下げるようにしたり、腕にはめようとして手首の上に乗せたりしていた」動作を見たに過ぎないのに、他からの暗示によって記憶に混乱を生じたか、あるいは無責任な応答の結果、前記のような供述をするに至った疑いがあるものといわなければならない。

原判決は、D及び同じく第三者であるEの両名が、本件現場において、Aら三名から「殴られた」とか「やられた」という話を聞いた旨それぞれ供述しており、Eは、Aの傷害の状況を具体的に供述している、ともいう。しかし、関係証拠によれば、被告人の供述するような状況であっても、AがEの供述する傷害、すなわち前記のようなかすり傷程度の傷害を負う可能性があり、その場合Aらにおいて、右のような発言をすることも十分に考え得るところである。してみれば、右各供述をもって、Aらの供述の裏付けとするには由ないものというべきである。

六  以上縷説したところから明らかなとおり、客観的証拠である本件腕時計の変形状況及び診療録に現われたAの受傷状況は、いずれも同人らの供述とは符合せず、第三者であるD、E両名の各供述もまた、裏付け証拠とするに足りないから、結局、Aらの供述は措信することができない(なお原判決は、バックルの凹損が本件現場において生じたと判断する根拠の一つとして、右現場で、D、Eの両名によって本件腕時計の状態が目撃されたことを指摘し、後に、右腕時計に作為、工作を加えにくい状態にあったことを挙示している。しかし、先に一の3のハ及びニにおいて述べた本件腕時計の変形、すなわち、六時側の鎖バンドのうち、下板側から数えて六番目のつなぎ駒の表裏の変形、下板と鎖バンドを接続する金具の伸び及びエンドピースと連結するつなぎ駒のやや平たくなったような変形は、これらがAのいうような、緩く装着しての日常の使用なり、木刀の一回の打撃によっては生じ難いと考えられること<佐藤鑑定書参照>からすれば、本件腕時計に対する事後の作為を疑わせるものというべきである。)。

以上の次第であるから、原判決は、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認があるといわなければならず、破棄を免れない。

論旨は理由がある。

よって、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により被告事件について更に判決すべきところ、本件において審判に付された事実は、冒頭に掲記のとおりであるが、右に関しては、叙上説示のとおり、結局犯罪の証明がないことに帰するので、同法三三六条後段により、無罪の言渡しをすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 草場良八 裁判官 半谷恭一 龍岡資晃)

<以下省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例